電子誘電性と結合した格子励起を初めて発見
-分子性有機物質の中性子非弾性散乱研究を加速―
一般財団法人総合科学研究機構
国立大学法人東北大学金属材料研究所
J-PARCセンター
発表のポイント
- 分子性有機物質(解説1)において、異常に大きく減衰した格子励起(解説1)を初めて発見
- 減衰の原因として格子と電子誘電性(解説2)の結合を新提案
- 分子性有機物質の電子誘電性の機構解明が期待
概要
一般財団法人総合科学研究機構中性子科学センターの松浦直人副主任研究員、中尾朗子副主任研究員、東北大学金属材料研究所の佐々木孝彦教授、井口敏准教授らは、仏国のラウエ・ランジュバン研究所、独国のミュンヘン研究用原子炉での中性子非弾性散乱実験により、分子性有機物質で、異常に大きく減衰した格子励起を世界で初めて発見しました。
この状態は、物質中を動きまわっているパイ電子(解説1)が分子上に徐々に局在化する50-60K以下で始まり、さらに低温の27Kでパイ電子の電荷とスピン(解説1)がそれぞれ秩序化すると同時に解消することを観測しました。このことは、パイ電子の動きと格子励起が密接に関係しあっていることを示しています。
また、通常の強誘電体(解説2)とは異なり、格子の対称性が低下しない(格子の位置がずれていない)ことから、この物質が示す誘電性は、電荷やスピンの自由度により分極が発生する電子誘電性由来であることも明らかになりました。
本研究は、分子性有機物質における中性子非弾性散乱を用いた物性研究を加速する成果です。
本研究成果は、米国の科学雑誌「Physical Review Letters」のオンライン版に7月10日付で掲載されました。
背景
コンデンサーやメモリーなど身の回りの電子機器には誘電体が使われています。
中でも電子誘電性を持つ分子性有機物質は、非常に速い応答や磁場による電気分極(解説2)の制御などが可能なことから、新たなエレクトロニクスデバイスの材料として、また、軽くて柔らかいという性質から、将来のフレキシブルエレクトロニクス材料としても期待されています。さらに無機化合物に比べて小さな圧力や光を加えることで電気的性質が大きく変化するなどの新しい機能性を示すことから、基礎研究の対象としても重要で、盛んに研究が行われています。
しかしながら、電子強誘電性発現の候補物質の一つであり、本研究で対象とした分子性有機物質においては、電子の偏りを示す光学的性質がこれまで明瞭には観測されていないことから、誘電性の起源についての議論が続いていました。
研究の内容
強誘電体の中には、不均一性のために巨視的には電気分極が生じない状況でもナノメータースケールでは電気分極が生じる物質があり、そのような小さく不均一な電気分極は、格子励起の異常として観測されています。
本研究グループは、電子誘電性を示す分子性有機物質においても、微視的な電気分極の発生に伴い格子励起の異常が出現する可能性を考え、最も適した研究手法である中性子非弾性散乱実験(解説1)に挑戦しました。
一般的に分子性有機物質は大きな単結晶を得ることが難しい為(図1)、中性子散乱を用いた格子励起の観測はいくつかの例外的に大きな結晶が得られる物質のみに限られていました。しかし、近年の中性子ビーム集光技術の向上により、劇的に中性子強度が向上しています。本研究グループは、世界で最も高い中性子フラックスを誇る仏国ラウエ・ランジュバン研究所のIN8分光器と独国研究用原子炉FRM2のPUMA分光器を用いて、電子強誘電性を示す候補の一つである分子性有機物質κ-(BEDT-TTF2Cu[N(CN)2]Clの格子励起を精密に測定しました(図1)。

その結果、2.6 meV付近に観測される格子励起の減衰因子(格子励起シグナルのエネルギー幅)が60K以下で顕著に増大し(図2)、格子励起の寿命(エネルギー幅に反比例)が極めて短い異常な状態(過減衰状態)にあることを発見しました。このことは格子と結合した揺らぎがこの温度以下で発達することを明らかに示しています。

50-60K以下で物質中を動き回っていたパイ電子は二つの分子からなるユニット(二量体(解説1))内に閉じ込められますが(図2)、このユニット内でパイ電子には、どちらかの分子に偏るという運動の自由度は残ることから、パイ電子の局在化とともに生じる減衰因子の増加は、格子励起とパイ電子の動きとが密接に関係しあっていることを示唆しています。さらに、異常に減衰した格子励起がパイ電子のスピンや電気分極が秩序化する27K以下で通常の状態に戻ることは(図2)、格子励起はパイ電子のスピンとも結合していることを示しています。このように、格子励起の異常という現象を通じて、電子由来の微視的な電気分極の揺らぎが生じていることを突き止めました。
また、通常の強誘電体では、過減衰した格子励起のシグナル強度が相転移温度に向けて発散するのですが、本物質では発散を示さないことが分かりました。更に、通常の強誘電体で見られる転移温度以下での格子の対称性の低下が、本物質では見られないことも大強度陽子加速器施設(J-PARC) 物質・生命科学実験施設(MLF)※1の単結晶中性子回折装置「千手」※2での実験から明らかにしました。これらの振る舞いも、分子性有機物質κ-(BEDT-TTF)2Cu[N(CN)2]Clが示す誘電性がパイ電子由来であることを示しています。
研究の意義と展望
中性子散乱を用いた分子性有機物質の研究は、例外的に大きな単結晶のできる物質に限られてきました。今回の実験で使用した分子性有機物質の単結晶試料は僅か10mgであり、分子性有機物質における格子励起研究の可能性を大きく拡げるものです。
分子性有機物質は、分子間の結合が弱い為に格子が柔らかく、パイ電子の持つスピンや電荷の自由度と協調して、多彩な性質を示すことが知られており、様々なエレクトロニクスデバイスへの応用が期待されています。
本研究を端緒として、分子性有機物質の多彩な性質と結びついた格子の研究が中性子散乱実験により更に加速されることが期待されます。
発表雑誌
雑誌名 | Physical Review Letters 123, 027601-1-6 (2019). |
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DOI | 10.1103/PhysRevLett.123.027601 |
論文タイトル | Lattice Dynamics Coupled to Charge and Spin Degrees of Freedom in the Molecular Dimer-Mott Insulator κ-(BEDT-TTF)2 Cu[(N(CN2)]Cl |
著者 | 松浦 直人1, 佐々木孝彦2, 井口 敏2, Elena Gati3, Jens Müller3, Oliver Stockert4, Andrea Piovano5, Martin Böhm5, Jitae T. Park6, Sananda Biswas7, Stephen M. Winter7, Roser Valentí7, 中尾 朗子1, and Michael Lang3 |
著者所属 | 1. 総合科学研究機構中性子科学センター 2. 東北大学金属材料研究所 3. Institute of Physics, Goethe-University Frankfurt 4. Max-Planck-Institut für Chemische Physik fester Stoffe 5. Institut Laue-Langevin, 6 rue Jules Horowitz 6. Heinz Maier-Leibnitz Zentrum (MLZ), Technische Universität München 7. Institute for Theoretical Physics, Goethe-University Frankfurt |
解説
解説1 分子性有機物質・二量体・格子励起・パイ電子・スピン・中性子非弾性散乱実験について
炭素、水素、窒素、硫黄などの軽元素からなる有機分子が集まってできた物質を分子性有機物質と呼びます。本研究に用いられた分子性有機物質κ-(BEDT-TTF)2Cu[N(CN)2]Clを示します。
図中の赤丸は二量体化した2つの分子によるユニットです。二量体とは2つの分子が分子間に働く力や構造的な配置により1つのユニットとしてまとまったものです。この二量体間は弱いバネでつながっていますが、二量体中の分子同士は強いバネでつながっていて振動しています。このような振動は波として物質中に伝わり、波は固有のエネルギー値をもちます。このような物質を構成する分子や格子に起こる波を格子励起といいます。
原子が2個ずつ電子を出し合って結びつく2重結合には、シグマ結合、パイ結合という2種類の結合があります。シグマ結合は結合力が強く、シグマ結合を担うシグマ電子は結合間に局在する一方、パイ結合の結合力は弱く、パイ結合をになうパイ電子は物質全体に広がっています。青丸は50-60K以下で二量体内に閉じ込められたパイ電子を示し、青矢印はパイ電子の持つスピン自由度(アップとダウン)を示しています。スピンとは電子がもつ自由度の1つで、電子はアップとダウン、2つの状態を持ち、磁石の性質の基になっています。二量体中に閉じ込められた後でも、パイ電子には、どちらかの分子に偏る運動の自由度が残ります。
中性子非弾性散乱実験では、中性子を試料に照射し、中性子と試料とのエネルギーのやり取りを精密に測定することにより、格子励起やスピンの励起や揺らぎを調べることができます。
解説2 電気分極・電子誘電性・強誘電体・強誘電性について
電場により+と-の電荷を帯びた格子の位置がずれたり、電子が偏ったりすることを電気分極と呼び、分極を起こす物質を誘電体、分極が生じる性質を誘電性といいます。
特に電子の偏りやスピンによって引き起こされる誘電性は電子誘電性と呼ばれ、近年、注目を集めています。
さらに、電場をゼロにしても電気分極が残り、電場の向きにより分極の向きを反転できる物質を強誘電体と呼び、そのような性質を強誘電性といいます。
κ-(BEDT-TTF)2Cu[N(CN)2]Clは電子誘電性発現の候補物質の一つです。
用語解説
- 大強度陽子加速器施設(J-PARC) 物質・生命科学実験施設(MLF)
- J-PARCは高エネルギー加速器研究機構と日本原子力研究開発機構が茨城県東海村で共同運営している先端大型研究施設です。素粒子物理学、原子核物理学、物性物理学、化学、材料科学、生物学などの学術的な研究から産業分野への応用研究まで、広範囲の分野での世界最先端の研究が行われており、世界中から研究者が集まっています。J-PARC内のMLFでは、世界最高クラスの中性子およびミュオンビームを用いた研究が行われており、MLFの共用ビームラインの利用支援などは総合科学研究機構(CROSS)中性子科学センターが中心となって行っています。
- 単結晶中性子回折装置「千手」
飛行時間ラウエ法と広い検出器立体角による高効率なデータ収集を可能にしたJ-PARC MLF BL18の単結晶中性子回折装置「千手」。(a) 外観図、 (b) 実際の装置。
本件に関する問合せ先
一般財団法人総合科学研究機構
研究内容について
中性子科学センター 研究開発部 グループリーダー 松浦 直人
E-mail: m_matsuura[at]cross.or.jp
TEL: 029-219-5300(代表), FAX: 029-219-5311
報道担当
中性子科学センター 利用推進部 広報担当
E-mail:press[at]cross.or.jp
TEL:029-219-5310(内線3710, 4207), FAX:029-219-5311
東北大学金属材料研究所
研究内容について
教授 佐々木孝彦
E-mail: takahiko[at]imr.tohoku.ac.jp
TEL:022-215-2025, FAX:022-215-2026
報道担当
情報企画室広報班 冨松(横山)美沙
Email:pro-adm[at]imr.tohoku.ac.jp
TEL:022-215-2144, FAX:022-215-2482
J-PARCセンター
報道担当
広報セクション リーダー 阿部 美奈子
E-mail: abe.minako[at]jaea.go.jp
TEL: 029-284-4578, FAX: 029-284-4571
[at]を”@”に置き換えてください。